2002年度アカデミー賞の9部門にノミネートされ、主演のニコール・キッドマンが見事に最優秀主演女優賞を受賞した本作は、華々しいオーラに包まれた名作として映画史に語り継がれるでしょう。
この作品の優れた特質をひと言で表現するなら、「見ていれば分かる映画」と言うに尽きます。これは決してこの作品を貶めて言っているのではありません。「見ていれば分かる」、しかも、人間にとってとても大切なことが、深い感動とともによく分かるということがその映画にどれだけ強い力を与えるかをこの作品は美しく証明していると、筆者は思うのです。
こんなことを書くのも、この作品の成立と構造が、一筋縄ではいかないくらい複雑だからです。ご存じの方には復習となりますが、まず1925年に発表されたイギリス人作家ヴァージニア・ウルフの長編小説『ダロウェイ夫人』があります。20世紀を代表する現代文学の傑作です。それをもとに、オハイオ生まれの現代アメリカ作家マイケル・カニンガムが1998年、『The Hours』と題する小説を発表。この作品がピュリッツァー賞およびペン/フォークナー賞というふたつの文学賞をW受賞し、ベストセラーとなりました。これを原作として、2000年に長編監督処女作『リトル・ダンサー』を世界中で大ヒットさせたイギリス出身のスティーヴン・ダルドリー監督が02年に同名の映画として完成させたのが本作ということになります。
原作の原作とも言うべき『ダロウェイ夫人』という小説が、そもそもたいへんに複雑な時間的・空間的構造を備えた作品です。今夜の夜会のための花を買いに行くダロウェイ夫人・クラリッサの一日を描きながら、視点はロンドンの各所、通り、大きな建物、小さな店、そこで行き会う人びとや、ひいては寺院の鐘の音などの様々な音などに横滑りしていきます。同じ風景が複数の登場人物によって違う角度から見られる時、そこに違った意味が生まれる場合もあるでしょう。さらにクラリッサの胸の内には過去の記憶の堆積があり、それらの記憶に現れる過去の様々な登場人物がいます。そして最後の夜会の場面に、この長大な作品に現れてきたすべての場所と時間が一堂に会する。この作品はいわば横滑りする(ロンドンという街の)空間がクラリッサというひとりの人物の持つ時間を組み立てていきます。文字で書かれた小説というメディアの特性を20世紀の初頭に発見し直したウルフの、今も色褪せない斬新な手法が見事です。
対して、マイケル・カニンガムによるアダプテーションを経たこの映画作品には3つの時間(=The Hours)が登場します。1923年のロンドン郊外、『ダロウェイ夫人』を執筆するウルフ自身の送る一日。1951年、ロサンジェルスの住宅地に住み、ハードカバー本の『ダロウェイ夫人』を読みながら人生の危機に直面している妊娠中の主婦ローラ・ブラウン。さらに2001年、エイズに罹った詩人である友人に寄り添いながら、あたかも『ダロウェイ夫人』の主人公を現代のニューヨークでなぞるような一日を送る編集者、その名もクラリッサ・ヴォーン。3つの異なった時間を生きる3人の女性の一日を、画面は唐突に繋ぎます。行っては戻り、また違う時間が挟み込まれ、観客はそのたびに異なった場所の異なった人物と出会い、一時的に別れ、再会します。そのたびにさっきの人物がなぜ今、このような行動を取り、このような言葉を発するのか、あるいはさっき発した言葉の意味することは何だったのか、観客はだんだんと深く理解していきます。そしてある時、それらの時間を通底する事実が一気に現れる。映画という時間の中を、物語の時間が縦に滑るのです。卓抜な原作と練りに練った脚本の力による部分が大きいのはもちろんですが、このような組み立て方は映画という、映像メディアの特権でしょう。これを言葉(だけ)で現せと言っても不可能です。しかもダルドリー監督は時間を行き来する時の映像的定石であるオーバーラップの手法を、ほとんど用いません。3つの、別の時間、別の人物への変位はカット編集によって組み立てられていきます。「花を買う」ことにまつわる、時間を隔てた3つの時間が劇的に交錯する導入部分でひとたび「ノって」しまえば、あとはすべて映像が連れて行ってくれるでしょう。最初に「見ていれば分かる映画」と書いたのはこういう意味です。映画の特権はそれだけではありません。行き来する時間と人物を繋ぐ重要な役割を果たしているのが、フィリップ・グラスによる音楽です。こういう場合、3つの時間・3つの人物の、それぞれのテーマ曲を設定するというのが常道ですが、グラスはそれをしません。縦滑りする時間を、音楽が緊密に結びつけます。これこそ小説にはできない映画の特権と言えるでしょう。
ならばこそですが、この映画をご覧になって感動された方はぜひ、原作の原作、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』をお読みになることをお薦めします。この映画の魅力がまた輝いて見えてくるに違いありませんから。
魅力的な台詞や、なによりもそれぞれに個性的な女優さんたちにも触れたかったのですが、もはや紙数も尽きました。この先は皆さんが、洋画★シネフィル・イマジカの画面から感じ取ってください。
洋画★シネフィル・イマジカ 編成プロデューサー 市川陽
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